昭和47年7月27日 朝の御理解 (末永信太郎)
御神訓一
天が下に他人ということはなきものぞ。
親神様のお心としては、やはり、天が下に他人ということはない。皆が天地金乃神様の氏子、と。ですから、人間も天地の親神様の、天地金乃神様とこう唱え、言うならば、やはり、一つの親。その氏子であるということであれば、白であろうが黒であろうが、黄であろうが、やはり一視同仁。やはり兄弟、いわゆる(同胞?)であるということを思わせて頂く訳でございましょうけれども。
やはり、それが本当なことだ、ということなんです。私は昨日は、教えは真理だということを昨日は頂いた、御教えは真理。いわゆる、本当なことだと思う。ですから、教祖様がここに仰っておられる、天が下に他人ということはなきということを、まあ、皆が一人の親を親という、兄弟だ、と。ね。だから、それが本当だと分からせてもらい、そうだと分かったら、んなら、どう在らなければならないか、ということ。
それが分かっただけでは、何もならんわけ。ね。まあ、言うなら、他人というのはいないのだ、と。みんな言うならば、神様の目からご覧になれば、兄弟同様だということ。ね、それが本当なことだと分かったら、また、そう教えて頂いたら、んなら、そういう強大同様の親身というものが、人間同士なからなければいけないのだ、ということになるわけ。ね。
天が下に他人ということはない、ということが分かっただけでは何もならん。ね。分かったら、そこから親身のものが通う、親身のものが交わされる仲というものを付くって行かなければならん。先日、あの、テレビを見せて頂いておりましたら、何か子供達の見る時間の頃のでしたけど、何か、まあ、浮浪者のような人が、私はそこだけ見たんですけども。子供達が4~5人でクリスマスの飾り付けの準備をしておるところへ、まあ、一人訪ねて、何かを訪ねて来たところを見たんです。
そこにお爺さんを中心にして、まあ、クリスマスの準備をしてるわけです。ほれで、大変寒い中に、その何か道を尋ねるか、何かを訪ねて来とるようです。そしたら、まあ、とにかく寒いからこちらへ入って、コーヒーでも飲んで行け、と言ってるんです。そんなら、熱いコーヒーを呼ばれようと言うて、コーヒーを呼ばれれおる内に、そう急がない旅だったら、どうだい、もうクリスマスでもあるんだから、2~3日ゆっくりして行かないか、と言うておるわけです、そのお爺さんがその人に対して。
私はそれを聞かせて頂きよったら、そのことだけで非常に感動したですね。どこの誰とも分からない。寒いのに何か道かものかを訪ねた。家では、もう明日に控えておるクリスマスの飾りつけを子供達がしている。そこに、まあ、寒いから家へ入って、熱いお茶でも飲んで行かないか、と。お茶を出してるうちに、何なったら、もうここ2~3日クリスマスだから、泊まって行かないかと、(逗留?)して行かないかという、それだけの、まあ、あの、対話の中にね、本当にこれが親身というものだろうと、私は思いましたね。
私はあの、天地の親神様が天が下に他人ということはなきものぞということを、それが本当なことだということを、教祖を通して教えられた。ね。だから、金光様の信心させて頂いて、そういう本当な素晴らしいことが分かったというだけじゃ何もならんわけでしょうが。天が下に他人ということはなきものぞ、と。
ところが、私ども、そのまたの諺に、人を見たら泥棒と思え、といったようながありますからね。お茶でも飲んで行けだけじゃ長いけども、何だったらもう、クリスマスでもして、そして、立ったらどうか、と。それを、もう本当に親身の、もう、前々から知っとる者、いや、親戚の者同士のような、その言葉の取り交わしを聞かせて頂いとって感動した。
それは、けっきょく、私はだから大坪聡一郎の感動じゃないと思うですね。天地金乃神様が、皆が、人間同士がそうあってくれたら、どんなに有り難いことになるだろうかという、これは神の感動だと、私は思うですね。ここで、なるほど、世の中には他人という者はおらんのだ、ということが分かるだけではなくて、そんならば、私どもは、ね、親身。
と言うて、誰にも彼にもその、親子のように兄弟のように言うたりしたりする訳にはいかんから、そこに何がなしかの縁というものがそこに出けたら、その縁というものが、そういう関わり合いが出けたところからです、ね、仲良うして行くとか、親身に思い合うといったようなものがね、なされる。それを、親が喜ぶ、天地金乃神様がお喜び下さる。そこには、あの、信心者の、私は、在り方といったようなものがなからなければならんのじゃなかろうかと、こう思うんです。
ここでも昨日一昨日でしたですか、子供達が遅うまで、その、たくさん花火を買って来て、その、清水の前でその、花火を上げておりました。私は休んでおったけれども、きれいな花火が上がるから、起きて来なさいち言うて、子供呼びに来ましたから、それから(あわただ?)起きてから、花火見せて頂いておりました。そしたらあの、誰かが、もう11時も過ぎてからでございましたでしょう。
表に何か、変なその男が来て、あちらん、普請場の方へその、行きよったち、こう言うわけです。だから、若先生がすぐこちらへ出て来て、あの、一人の男の人を連れて来ました。まだ24ぐらいな若い青年です。なん、こざっぱりした感じです。話を聞いてみると、その久留米でお金を五千円ばっかり持っとったけれども、その、すられたち。ほれで、久留米から歩いて帰って、ここまで来たちゅうわけです。
だいたい、どこですかち言うたら、あの、私は甘木の教会の信者だ、と。ああ、なら甘木の人ですかて。いいえ、だいたいは本郷です、と。なら、本郷の教会に?いいえ。したら、今度は、私は日奈久のだいたいモンですと、色々その、言うんですよ。それはそれで、もう、お金とられてから、困っとるだろう。
なら久留米から、もう何時間かかって歩いて来とるのだから、お腹も空いとるだろうから、ならご飯ども頂いて、とこう言ってる、あの、私申しました。それから、なら、(勝手?)でご飯ども出しなさいち、あげなさいち言うてから。したら若先生で、家の車で送ってあげましょうち言うちから、言いよりますもん。
いや、だから、そげなことは止めなさいち。これからお前、甘木までぐらいなら、それこそ、まだ若いのだから、歩いて行っても(便り?頼り?)はないから、かえって、それの方が修行になろう、と。そして、あの、御取次を頂くとか何とかというな、お道の言葉を使いますから、やっぱお道の信者さんらしいんですよ。それで、まあ、修行にこれからと思うて、歩いて行かれたらいいですよと言うて、後、そして私はご飯を出させるようにして、私また休ませてもらって考えたんですね。
ああ、久留米からお金なしで、そりゃ、タクシーを雇うて、なら、お金を家で払ってもいいのだし、これだけ沢山の車が行ったり来たりしよるのだから、ちょっと便乗させてもらっても、誰でもこんな遅くだったら、金を無くしたからと言やあ、誰でも乗せてくれるであるのに、わざわざ家の普請場の中に入って来てからウロウロしとるなんて、やっぱおかしな男じゃったなと、まあ、寝ながら思ったことでございましたけどね。まあ、その時でも、あの、やはり親身なものを感ずるんですね。
そりゃひもじかったろう、なら、ご飯ども出しなさい、と。そして、これから、んなら、甘木まで歩いて行けということも、私は本当に、はあ、まあ、良い思い出になって、そりゃいいだろう、一遍ぐらいそういうことがあっても。ね。修行と思うて帰りなさいて。
家から送ってやるのはいいけども、それよりか歩いて帰った方がいいですねと、私が言うたことも、やはり親身だったわけです。ね。ですから、段々こう、そうした、考えて見ると、何か悪いことしに入って来とったのじゃないだろうか、というような感じもせんではないですけれどもね。その瞬間、やはり、親身なものが通う。ね。私はあの、人間同士のそうした、親切というものの交流ということが、最近は非常に、段々、いわゆる無くなってきた。言うならば、人を見たら泥棒と思えというような味方だけの方が、多くなった、強くなって来たというように感じます。
なるほど、そういうことがないでもないです。けれどもね、いつか私、これは椛目の時でしたけど、そんな風で金をとられたから、大分まで帰らんならんと、こう言う。ほれで、母がすぐおにぎりを作ってやってから、久大線で大分まで帰るほんな汽車賃だけでしたけれども、あげました。
そして明くる日、善導寺にお参りしてたら、善導寺の町をウロウロしよりますもん、その人が。それはもう、ほんにガッカリするような事でございましたけれどもですね。けれども、あの、それをおにぎりを作ってやったり、その、汽車賃をあげたりしたという、そのことは、私は神様に喜んで頂いたと思うんです。
ね、それは例えば、損をしておっても、馬鹿らしいことをしておってもです、ね、その心というものは、言うならば今日の御理解から頂きますとですたい。いわゆる、赤の他人という者はいないのだ、と教えておられる。だから、んなら、どうしなければならないか。そんなら、そこには親切がなされなければならない。親身な者同士の交流が、人間同士の中に出けるということ。そのことが、神様の願いであり、それが本当だということになるんだ。
そこで、んなら、おにぎりを作ってやって損をしたとか、旅費を出してやったことが馬鹿らしかった、ということはマイナスになっとりましょうけれども、なら、神様の心の中にお喜びを頂いたということは、これは大変な私はプラスになっておることだと思うんです。ね。
それは、無形なものですから分かりませんけれども、そういう心が、次にどういう、ならおかげを頂く元になっておったかすらも分からないのです。ね。ですから、どうしても私どもはです、そういう真の信心というものをです、私どもが本当に身に付けさせて頂いて、そういう真の生き方というようなものをです、身に付けて行くおかげ。そして、そういう世界を広げて行かなければならないという使命のようなものをね、銘々が感じるおかげを頂くということがです、ね、神様にお喜び頂けるような世界が開けて来るということになると思うです。
天地の中には、一つの大きな生命というものがある。いわゆる、天地が生き通しだ、と。そこに私どもが、人間同士、いわゆる人間氏子として表現されておる。ね。その天地の命に繋がっておる、私ども一人ひとりである。そこのところを教祖は、いわゆる天が下に他人ということはなきということは、天地の大生命に繋がる小生命。ね。それを、教祖が表現しておられるのは、他人ということはないということになる。
そういう風に表現しておられるのであります。だから、その生命の自覚が出けるというかね。いわゆる、神の氏子としての自覚が出ける、と。ね。それが、真の信心の根本になるものです。ですから、信心ということは、そういう天地の、まあ、大道とでも申しましょうか。天地に道ありという、その道に背かんで生活をして行くということを、教祖は教えておられる訳です。ね。
人を見たら泥棒と思え、と。そういう考え方は、だから、そういう道には天地の大道には背くことになるです。ね。色々な主義主張があります、色々な何々党とか、何々主義とかと。まあ、私どもから見て、ああ、危険なと思われるような思想とか、主義というものがありますけれども。そういうことよりも、私どもが真の道にあって、真の人間としての生き方をしてないということの方が、もっともっと危険だということです。今日は大変、こう難しいことに、って参りましたですね。
私どもが、ね、天が下に他人ということはないと教えられた。そんならば、私どもはもう、親類同士、兄弟同士という思い方をしなければならない。そしてそれを、辞に現して行かなければならない。その現すということがです、そのまま、私は神様の喜びだということを、私はまあ、映画の一齣から、または、私が2~3日前の出来事の中から、まあ、聞いて頂いたわけです。ね。
それが、神様のお喜びである証拠に、私は感動したと、こういう風に、まあ、聞いて頂いたんです。だから、それを、なら、また、理論づけますとです、いわゆる、天地の大生命。ね。世界中の総氏子と仰る、私どもの一人ひとりの生命。その大生命と小さい私どもの生命というものが、一つであるということ。ね。
それを、例えば今日は、人間氏子としての在り方というものが、ね、他人同士のような冷たい、いわばお付き合いではなくて、親戚同士のように、親身に親切をし合うて、いわゆる助け合うて行くというような生き方にならせて頂くということが、この御教えに応えるということである。
そういう世界を私どもが、先ず自分の手元のところから広げて行こう、と。誰でも彼でもという訳にはいけんから。ね。それは、場合には胡散臭いと、後では感じるような人におにぎりを作ってやったり、汽車賃を施したりするというようなこともです、そのことは、なるほど人を見たら泥棒と思えという思い方の方が、いかにも賢いようにあるけれども、それでは、神様がお喜びにならない、と。
それは、それが騙されておっても、やはり、おにぎりを作ってやったことやら、旅費を施したことは、そのままが神様のお喜びである、と。その喜びによるおかげというものは、もっと大きいのだということです。ね。ですから、そういう考え方。ね、が、私は真の道にある人、または、真の道を踏んで行くというのは、そういうことだと思うです。けれども、真の道を踏みよると、損するからと言うたら、もう、それまでの話。けれども、真の道を踏むということが、そのまま、神様のお喜びであるということが分かって来るとです、ね、やはり、そうしなければおられない。もちろん、親切、と。
親切とは、親が子を思う切なる心。ほりゃ、久留米から歩いて来たなら、もうお腹もずいぶん減っとることだから、なら、ご飯を頂いて、それから、まあ、ひと頑張り甘木まで歩いて帰れ、とこれは、私は親身な考え方だと、こう思うんですね。例えば、人を見たら泥棒と思え、といったような思い方は間違った巻が得方であって、まあ、言うなら危ない考え方。
それを、例えば大きな〇〇党とか、〇〇主義とか、と。ね。私どもから見て、本当に心が寒うなるような感じの主義主張といったようなものもあります。ね。けれども、それよりも、もっと危険なものはです、いわゆる、信心のない者の生き方だということです。ね。
だから、今日の信心というのは、真の道を知っても、真の道を歩いて行っておるということなんですよ。信心しておっても、信心しとらない者以下に、危ない橋渡りのような生き方をしておる人が、やっぱありますからね。教えは真理である、本当なことであるということ。ね。
天が下に他人というものはない、と教えられた。それを、なら本当だと、私どもが素直に受ける。そんならば、私どもはどう在らなければならないか。いわゆる、人間同士が仲良うして行かなきゃいけない。そこに、縁が生じ、縁があったならば、それを親身に親切をし合うて行かなければいけない。そういうことをしよると、正直者が馬鹿を見ることになる。馬鹿を見ても良い、そのことは神様に通うのである。
だから、私どもは、ね、損したぐらいなことではない、おかげに浴することも、また出来るのである。ね。それを例えば、少し理論的に申しますとです、天地の大生命。それに繋がる一人ひとりが、小生命、命である。天地の命、それを、いわば大天地に対する小天地とか、ね、大神霊に対するところの小神霊だとかという風に私どもは申します。ね。そういう天地との関わり合いと同時に、私どもの横の人間同士の関わり合いというものも、他人ではないという考え方、見方が本当なことだということ。
本当なことだとわかったら、なら、どう在るべきかということ。ね。どう在るということ、そのこと事態が真の道を分かり、真の道を踏んで行くということである。そこで、私はですね、いわゆる、現代の言うなら救い、と。ということは、どうしても真の道を教えて行くことの、言うなら教育がです、なけれなければならない。いわゆる、和賀心時代を創ると言い、ね、和賀心学なるものをつくり、そして、それを一人ひとりの例えば教育の中にです、そういう教育を第一としての生き方が、ね、出けるような働きというか、または運動を起こして行くというか、それが展開して行くような願いというものを、私どもは持たなければならない。いや、そういう一つの使命感というようなものをです、銘々が持たなければならない。
ああ、もう、私がおかげ頂きさえすりゃ良いといったようなことから、大変な違いであることが、金光様の御信心を頂いて分かります。なるほど、簡単に真の道とか、真の人とかということはです、ね、そういうようなことにまで繋がって行かなければならないと思うのです。
どういう素晴らしい、例えば政治が施されてもです、只今、私が申しますような真の道を知って、真の人にならせて頂くということを、いわば天が下に他人ということはない、というような間違いのない考え方を持って政治がなされなければ、言うなら、または教育がなされなければ、ね、本当の神様にお喜び頂けるような社会というものは臨めないということ。
その中に、本当にわずかな、わずかなお道の信心をする者。そのお道の信心をする者の中にも、合楽で御神縁を頂いておる、もう、本当にわずかな、わずかな人でもです、そこんところを分からせて頂いて、天が下に他人ということはないというこを分かり、それを本当に自分の周囲に広げて行く働きをさせてもらう。
その根本になるものが、和賀心である。ね。和賀心時代を創って行くということは、ね、本当の意味において、現代社会の難儀というものの中からです、に、一つの救いをもたらすことになる。ね。現代の人達にどうでも真の道を教えて行く。ためには先ず、教える前に私どもがそこんところを分かっただけではいかん。他人というものはないぞ、ということが分かっただけではいけない。そんならば、私どもがどう在らなければならないかということを、今日は大変理屈っぽくでしたけれども、まあ、ゆっくりゆっくり申しましたから、よく考えてみて、自分の周辺にそういう世界を広げて行く、そういう御用をさせて頂かなきゃならんと思うですね。どうぞ。